琴平町の賢人文化を日本全国へ

賢人・名所紹介

名所案内

金刀比羅宮

讃岐のこんぴらさん

 讃岐(さぬき)のこんぴらさんと呼ばれ、海の守護神として親しまれており1,368段(御本宮まで785段)の石段からなり、御祭神は大物主の神で崇徳天皇を合祀しています。
 海上交通の守り神として信仰されており、現在も漁師、船員など海事関係者の崇敬を集め、海上自衛隊の掃海殉職者慰霊祭も毎年、この金刀比羅宮で開かれています。

 

鞘橋

鞘橋

 鞘橋(さやはし)は、琴平町内を流れる金倉川に架かる木造橋で、金刀比羅宮の御大祭の時だけに使用されている屋根つきで橋脚のない全国でも珍しい浮橋です。
 現在のものは阿波麻植郡講中寄進により、明治二年五月竣成されました。


琴平駅(JR)

琴平駅

 大正時代に建てられたJR琴平駅は、その北欧風の洒落た外観で老若男女の人気を集めており、駅前の広場に展示されている巨大な蒸気機関車の動輪は、琴平が、香川県ではじめての本格的な鉄道「讃岐鉄道」の発祥の地であったことを今につたえています。

 

高燈籠

高燈籠 高燈籠ライトアップ

 琴電琴平駅(高松琴平電鉄の駅)の横にある高さ日本一の燈籠(とうろう)です。夜には火が灯り、美しい夜景が眺めます。また、春は桜がとてもきれいで琴平町の名所の一つです。
 瀬戸内海を航海する船の指標として建てられたもので、高さは約27mあります。内部は3階建で、壁は江戸の人々の落書きで埋まっています。

 

満濃池

満濃池満濃池

 日本最古で最大の灌漑用のため池。大宝年間(701〜704年)に築造された。決壊し放置されていたが、821(弘仁12)年に弘法大師が強固な堤防を築いて改修したといわれました。

 堤防の下に埋められている底樋は、腐りぬくい松の厚板を箱形に組んだものが主に用いられてきましたが、腐朽(フキュウ)すれば堤の決壊の原因になるため、20〜30年ごとに堤を切り開いて取り換える大工事が必要でした。そこで、取り換えの負担を少なくするために、嘉永6年(1853)に庄屋の長谷川喜平次により堅牢(ケンロウ)な庵治石(アジイシ)を用いた底樋に改めましたが、安政元年に発生した南海地震により、堤が決壊してしまいました。

 その後、明治3年(1870)に長谷川佐太郎らによってトンネル形式の底樋へと改修されました。

 

呑象楼

呑象楼 呑象楼
榎井小学校 庭掃除をする榎井小学校の生徒

 日柳燕石の旧宅です。燕石の旧宅は、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、“象頭山を呑む”意気を示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられました。呑象楼は興泉寺の前にあったが、現在は榎井小学校北西に移築されています。



賢人紹介

日柳 燕石 (くさなぎ えんせき)

日柳燕石 文化14年3月14日(1817年4月29日-1868年10月10日)は江戸時代末期の志士。讃岐国仲多度郡榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)の出身。幼名長次郎のち耕吉、名は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。

 父は、加島屋惣兵衛という。幼少時代から気が鋭く、伯父の石崎近潔に学び、その後13歳で琴平の医師・三井雪航に学んだ。三井雪航や岩村南里に経史詩文、奈良松荘に国学歌学を学び、阿野鉄兜や森田節斉らと交遊した。詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。当時の榎井村は幕府直轄地の天領で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、また隣の金毘羅の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から金毘羅宮に参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていた。そのような環境の下、加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには「四書五経」を読破した。

日柳燕石 反面、侠気をもって知られ、21歳で父母に死別したのちに家督を相続して33歳頃まで遊興したことで、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られていた。また勤王の志が非常に厚く、天下の志士と交わり国事のために私財を投げ出して尽力した。文久末年頃より長土諸藩の志士で幕吏の追跡を受けて彼の家に潜匿するものが多く、よくこれらの志士を庇護していたが、慶応元年に(1865年)、高杉晋作が幕吏に追われて榎井村に燕石を頼って亡命したのをかくまい潜匿・逃亡させたことから嫌疑を受けて、高杉の身代りに4年のあいだ高松の獄に幽せられた。慶応4年(1868年)正月20日に出獄し、その後赦免の朝命に接して京都に上って書を奉った。朝廷は召して御盃を賜い燕石を桂小五郎(木戸孝允)と共に西国地方に周旋させた。

 その後、仁和寺宮嘉彰親王が会津征討越後口総督として出征する際に、史官に任じられて軍務方記録を掌り、北陸に従軍したが四年間の投獄がもとで従軍中不幸にも越後柏崎で病没した。52歳であった。墓は新潟県柏崎市の柏崎招魂所に立てられたが、爪髪は香川県仲多度郡琴平町榎井の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として立てられている。

 


小学生から見た日柳燕石

 地元の阿部裕治郎さんが小学生当時、夏休みの自由研究で1年生から6年生までの6年間に日柳燕石をまとめた資料です。
 資料のうち1年生(昭和53年)と5年生(昭和57年)当時のものを掲載しました。小学生の目からみた「日柳燕石」「呑象楼」を知ってください。

 

1年生(昭和53年) 1年生1
   
   
   
   
 
   
   
5年生(昭和57年)
   
   
   

 

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